夢は飲食店開業!寄り道まみれな日々。その一部始終。

ホシノが蘇生されるかもしれないという話

 

 
 めっちゃヒサシブリに、「腑に落ちる」という体験をした。今から人間らしい生活ができそうな気がする。なんだか。どうでもいい人にとってはどうでもいい話かもしれんが、誰に宛てるわけでもなく記しておきたい。
 
 ホシノのそばに居る人間なら「うんうん」と思っていただけるだろうが、とにかくここ半年のホシノはヤバかった。授業は2割ほどしか出席していない、クラシックギターの自己練習は中途半端にしかしてこない、大事な話し合いの前にアイディアを固めてこない、約束の期限を守らない、ゼミの発表も担当の週に間に合わない、買った本を読まない、そのせいで荷物が多い。などなど。ひっくるめて言えば、「だらしない」。
 
 だらしない!というのは、つくづく痛感していた。だがしかし、「なんとかしないと。周りの人からの信頼が……」と不安を抱きつつ、なんともできない、やる気が起きない、生活している心地がしない。という躁鬱とした日々。「やるべきこと」を先延ばしにして、ただなんとなく過ぎてしまう毎日。期限直前に、「べき」が、「やらなければいけないこと」に変わってから猛ダッシュ、みたいな疲労困憊のパターン。ダメすぎる。という。
 
 こんなダメなところまで落ちたのは、やはりここ半年のことだと思う。去年のホシノの方が、ちゃんと授業に行ってたし、大事な話の前にアイディアを用意していたし、約束の期限も守ってたし、買った本もちゃんと読んでた。
 
 「去年と今年とでは、何が変わったの?」と思い返してみると、パッと思い浮かぶのがアイツ。あの、おっきな手帳を手放したこと。ほぼ日手帳の購入をやめて、自作のカレンダーと日記ノートにシフトしたこと。
 

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 もう、まっさきに「こいつのせいだ!」と思った。去年はこの手帳ですべてがまわっていた。一週間の予定を書き記しては確認して、思いついたことはすべてメモして、いちいち読んだ本の記録もした。手帳を手放してみたらどうだ、期限は守らない、メモをすることもなければアイディアすら浮かんでこない、本も買いっぱなしで読まない。転じて、人生奈落の底状態。
 
 「ほぼ日手帳ごときで、なぜそこまで」と、思われるだろう。ホシノも、「手帳がないだけで、なぜここまで」という気分さ。……もともと、「今年は手帳を手放そう!」と思ったのは、ある人からのヒトコトがきっかけだった。
 
 「キミってば、手帳がないとなんにもできないんだね」、って。
 
 去年、友人と話していると、決まって「ホシノの手帳がすごい」という話題になった。「ふふん!」と、不思議に誇らしく思いながら、ホシノがほぼ日手帳と培ってきたライフについてあれやこれや熱弁しているうちに、その場にいた「友人の友人」に言われたのだ。「手帳がないとなんにもできないんだね」、って。
 
 たしかに、あの頃のホシノは「ほぼ日手帳がないと生きていけない!」と、新興宗教的に依存していた。当時のホシノも、依存しまくっていることは自覚していた。高校のころの友だちに、冷ややかな目で見られてた。「それ、高いんデショ?それなのに、そんな大枚はたいちゃって。奴らの思うツボじゃん!ドツボじゃん!」、って。
 
 そんなこともありながら、去年の末、「さて、2013年はどのように手帳を買い揃えましょうか」と、あらかじめ出費を計算してみたとき。「次は手帳、3冊の併用を試みよう!」などという暴挙を企て、あれやこれやで、なんと、4万円ほどの出費になるという計算になった。
 
 「4万円……!」
 
 すかさず「365」で割ると、だいたい「105」になって。つまり、2013年の一日一日毎日に、「105円」分の価値が生まれるんだなぁ。なんて幻想を見ていたら、ふと「4万円」という現実に頭を打たれた。
 
 「依存も、ここまでくるとヤバいぞ……」
 
 平気で4万円差し出そうとする自分にとうとう危機感を覚え、「ほ!、ほぼ日手帳は、もうやめるー!」という決心に至ったわけで。
 
 
 
 しかし、きっぱり「記録」することをやめたわけではない。「もっと安く済ませよう」と、手元にある紙媒体で「記録」することを続けてゆこうと思っていた。そんなこんなで、ここ半年は自作のカレンダーと日記ノートと暮らしていたが。なぜだか、ほぼ日手帳時代のようには生活がうまくいかず、現在のように「だらしない」生活、まっしぐら。
 
 「書くことをやめたわけではないのに。なんでこんなに転落してしまったんだろう。ほぼ日手帳時代は、なんであんなにしっかり生きていたんだろう」
 
 考えても考えても答えは出ず、ただ「だらしない」生活にズブズブ落ちていくばかりで、それでも必死のあがきで、ほぼ日手帳とは別の場所に「記録」は続けながら、約半年。
 
 「あ。あ!わかった、わかったぞ!」と、今日、ついに、その答えが出た。「記録」を続けるのは変わらないのに、ほぼ日手帳と自作の紙媒体とで、何が変わってしまっているのか。その答えが出たのだ。
 
 きっかけは些細なことだった。今朝、ちょっと早起きしたから、起床「した」時間を記録しただけだった。「む、珍しく早起きだ。とても爽やかだ」と、その爽やかなテンションを引きずって読書なんかしてみた。バイトに行く時間になったから、読書「した」時間を記録した。
 
 「……あれ?」と、なった。ふとしたことで、3ヶ月も読んでいなかった本を、この1日で読みきってしまった。ほぼ日手帳時代の、行動力を思い出した気がした。
 
 きっかけはホントに些細なことで、今日、特別にしたことといえば、「したこと」を記録したこと、それだけだった。では、今までは何を記録していたかといえば、それは、「すること」を記録していたことだった。ここ半年はずっと、主に近未来のスケジュールを記録していた。……いや、日記もそこそこに書いていたのだけど、それとは何かが違った。
 
 何が異なっていたのか。ちょっと考えればすぐ核心に辿り着けた。
 
 それは、「活動」と「記録」の関係性だった。つまり、今までの日記は、なんとなく過ごした「活動」が先にあって、それを「記録」するだけでおしまいだった。そんなこんなで、一日がなんとなく過ぎ去ってしまっていた。しかし、今日は違った。「努力の過程を刻むぞ」という意志が先にあって、そのために「活動」をした。なんだ、それだけのことだった。
 
 それに気付くなり、今までのモヤモヤしていたものがすっと「腑に落ちた」。それだけのことだったのか。
 
 ほぼ日手帳時代には、「記録するために活動する」というのがなかば無意識に為されていた。どうしてかというと、先ほどの値段の話に戻るけれど、「一日、105円分、何か活動しないと、高い手帳を買った意味がない……!」という意識が確かにあったから。「何か書くために、何かしないと!」という毎日だった。
 
 しかし、それを自前で安く済ませた今年は、価値ある毎日を過ごそうという意識が削がれてしまったわけで。そんなわけで、去年とは違う、ていたらくな日々が続いてしまったのか。これが、去年との違いなのかぁ。と、腑に落ちたわけで。
 
 
 
 そんなこんなで、今日からはじわじわと、「だらしない」生活から足を引き上げることができそうな予感がする。がんばります。