ホシクン

夢は飲食店開業!寄り道まみれな日々。ほぼ月木更新。

自分だけが楽をしたって 本当に楽しめないんだよ

 


 

 

 過去記事で、「やりたいことがあっても、正しいかわからないからできない」についてしばらく書いてきました。

 

 「《正しさ》を判断基準にせず、《楽しさ》を判断基準にすればいい」なんて、のたまっております。

 


 

 

 以前、「楽しければ、人を殺してもいいのか」ということについての記事も書きました。

 

 

 本記事ではそれらについてまた、少し角度を変えたオハナシをしたいです。

 

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 以前の記事で書いたような《責任》というのがついてまわると、判断基準がやはり《正しさ》へ傾いてゆく気配がします。ですが、それでもまだボクは《楽しさ》を判断基準にすればいいと言い続けます。

 

 

 「わがままが過ぎれば、誰かに不快感を与える」というところで《楽しさ》を選べなくなってしまう心優しい人は、《楽しさ》の範囲を広げてあげればいいだけデス。自分ひとりが楽しいだけじゃなくて、その周りの人にも利益が舞い込むようにすればいいデス。

 

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 「自分さえ楽しければ、人を殺してもいいのか」となったとき、ただ殺人を犯して得するのは、自分ひとりだけです。

 

 どんなことでも、「自分ひとりだけ、楽しい」という選択をすると、それに対して大きな犠牲が跳ね返ってくることが、多い気がします。

 

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 反面、「自分も当然楽しいし、その身の回りの人も楽しい」という選択ができると、犠牲は小さくなって、むしろ身の回りの世界が明るく潤っていく気がします。「身の回りの人」の数を大きく考慮できればできるほど、世界はどんどん明るさと潤いが増してゆく気がします。

 

 

 キーワードは、《楽しさ》の範囲を広げてやればイイー、デス。

 

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 そういう基準で思考すれば、《殺人》が楽しい人は、《死刑執行人》として働けば良いんではないでしょうかね。死刑執行ボタンを押したくない人間の方が多いはずだから、それを引き受けてくれる人がいるというのは、ボタンを押したくない人々にとって救いになる気がしますわな。

 

 そのことに対して、キチンと給料も支払われますし。ネ。

 

 

 そんなオハナシでした。