自分だけが楽をしたって 本当に楽しめないんだよ
過去記事で、「やりたいことがあっても、正しいかわからないからできない」についてしばらく書いてきました。
「《正しさ》を判断基準にせず、《楽しさ》を判断基準にすればいい」なんて、のたまっております。
以前、「楽しければ、人を殺してもいいのか」ということについての記事も書きました。
本記事ではそれらについてまた、少し角度を変えたオハナシをしたいです。
===========
以前の記事で書いたような《責任》というのがついてまわると、判断基準がやはり《正しさ》へ傾いてゆく気配がします。ですが、それでもまだボクは《楽しさ》を判断基準にすればいいと言い続けます。
「わがままが過ぎれば、誰かに不快感を与える」というところで《楽しさ》を選べなくなってしまう心優しい人は、《楽しさ》の範囲を広げてあげればいいだけデス。自分ひとりが楽しいだけじゃなくて、その周りの人にも利益が舞い込むようにすればいいデス。
===========
「自分さえ楽しければ、人を殺してもいいのか」となったとき、ただ殺人を犯して得するのは、自分ひとりだけです。
どんなことでも、「自分ひとりだけ、楽しい」という選択をすると、それに対して大きな犠牲が跳ね返ってくることが、多い気がします。
反面、「自分も当然楽しいし、その身の回りの人も楽しい」という選択ができると、犠牲は小さくなって、むしろ身の回りの世界が明るく潤っていく気がします。「身の回りの人」の数を大きく考慮できればできるほど、世界はどんどん明るさと潤いが増してゆく気がします。
キーワードは、《楽しさ》の範囲を広げてやればイイー、デス。
===========
そういう基準で思考すれば、《殺人》が楽しい人は、《死刑執行人》として働けば良いんではないでしょうかね。死刑執行ボタンを押したくない人間の方が多いはずだから、それを引き受けてくれる人がいるというのは、ボタンを押したくない人々にとって救いになる気がしますわな。
そのことに対して、キチンと給料も支払われますし。ネ。
そんなオハナシでした。