ホシクン

夢は飲食店開業!寄り道まみれな日々。ほぼ月木更新。

チャチャ入ったってなんも動じない

 

 

 

 

 こんばんちゃ、星です。

 


 まだまとまりきれていませんが、『ナメられる』ということについて思ったことでも書いてみます。

 


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 ボクはわりと人からナメられやすい人間です。

『フレンドリー』と言えば長所になりますが、コレがたとえば仕事などで後輩と関わるときにはモンダイになったりならなかったり。

 

 

 

 このモンダイについて、最初に考えていたことは、「ナメられる側に問題がある」、デス。些細な欠点を払拭できるほどの魅力も無いから、ナメられるのでは無いかと思っていました。

 


 その後、その考えが変わりました。

「ナメる側にも、ナメられる側にも、両方問題がある」、てな感じに。

 


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 そしてその後、また考えが変わって、現在のカンガエにまとまります。

‥‥「変わった」というか、「加わった」と言うのが正しいですが。

 


 新しく加わった考えというのは、「ナメられていることに落ち込みすぎるのも、また問題」デス。

 


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 ナメられて悩む人は、相手が気持ちよく感じるように自分の行動を合わせている。しかし、自分が良いことをしても、相手が勝手に気に入らないことだってある。

 

 

 

 『相手に自分の感情を支配されること』から脱け出したほうがいいかもしれません。「誰かが勝手にナメてきても気にしません」という覚悟を決める。

 

 

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 そんなかんじです。

 

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 動画でも似たような話をしています。

 

 

 

誰に何を言われようが 楽しむことは人間の義務

 

 

 

 

 こんばんちゃ。星です。

 


 過去にも同じタイトルの記事あるかもや。

 

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 「自分がわからない」と言う人は、自分を、ホントの意味で、大切にできていない人に見えます。

 


 自分の経験でのみ語るので、スーパー偏見ですが、「自分がわからない」人は、判断基準が自分の外になっている気がします。ありがちなのは、「親がそう言うから」とか。

 


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 ボク自身にもこんな経験がありますが、目の前の人の機嫌を伺って物事を判断している。それでその瞬間だけは、自分自身が嫌な気持ちをしないで済むことは済みますが、度が過ぎると、我が消えていきます。我を消すのに拍車がかかる振る舞いが、癖になる。

 


 それが癖になると「自分がしたいことがわからない」「自分がわからない」「生きてる意味がわからない」と、最悪、うつ状態まで真っ逆さま。

 


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 もっと自分に素直になればいい。自分の意見を尊重してよい。いい意味でワガママに。

 


 「ワガママ言ってはダメ」なんて決まりなんてどこにもありませんし、なんならそのルールは自分が勝手に生み出している。

 

 

 

 他人に優しいのはいいけど、自分もいたわったらどうっすか。他人に優しくするのは、その後にしましょう。

 

 

 

 そんなかんじです。

 

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 動画でも似たようなオハナシしてます。

 

 

万年18歳希望よ?

 


 こんばんちゃ、星です。

 

 

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 ボクは、実年齢よりも上に見られる方が嬉しいデス。

『年齢を若めに言わないと失礼』という感覚がいまいちわかりません。

 

 

 20歳頃に「若ーーい!」てよく言われていたけど、

それは事実を言われてるだけのことで、なにも褒められている感じ・嬉しい感じがしませんでした。

 

 「横浜出身ーー!」て言われているだけといっしょ。別に褒められてない。

 

 

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 あまりちゃんとブログ書けていないので、しばらくは、

【月・木曜日の、18時ごろ】に、ちょこっとしたことだけでも投稿していくことに決めました。

 

 

 

 それだけです。

 

 

 

悪びれたフリなんてもう流行らない

 

 こんばんちゃ、星です。

 


 

 こちらの『実況ラジオ』でもチラッとオハナシしましたが、《怒》について考えてみました。

 

 ちなみに、実況ラジオでの口語よりも、ブログでの文語の方がわかりやすくまとめられているつもりなので、動画を観る必要はありません笑

 

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 ボクは遥か昔から、自分の中の、喜怒哀楽の《怒》を排除しています。

 

 幼き頃の《怒》に対するトラウマですね。ですが、近ごろ、「なぜボクは《怒》を排除したいんだろう?」てなことを改めて考えてみましーた。ついでに「《怒》って、ナニ?」的なことも考えたので、本日はこの2点を言葉にしてみたいと思います。

 

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「なぜボクは《怒》を排除したいんだろう?」


 まずふと気付いたのが、怒は怒でも、『自分で自分を怒ること』は嫌いではないということデス。 たとえば、自分のギターがなかなか上達しないことに対してイライラしたり、自分を叩き上げたりだとかは、良いことだと思うのです。好き。

 

 では、ボクは《怒》というモノの何が嫌いなのかー? ‥‥を考えてみたところ、その正体は《理不尽》でありました。「掘り下げてみると。ボクは《理不尽》を排除したいんダナー」。

 


 《怒》には《理不尽》が付き物な気がします。「オレ様が気に食わないから怒るんだゼ!」が常に付きまとうような気がしますネ。「相手の成長を願って、言う」よりも「自分の気が晴れないから言う」という《自分の感情》が優先。ワガママに見えます。

 

 《強い物言い》になるにしても、ワガママでないものは《叱る》という言葉で区別されていると思うのデス。 ですので、「自分で自分を怒る」というのも、「自分で自分を叱る」と言った方が正確である気がします。 ですので、結局、《怒》はキライなわけです。

 

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「《怒》って、ナニ?」

 

 ボクは最初、《怒》は《求める》ことで生まれるモノだと思っていました。
⇒「私はこうしたいのに、うまくいかない怒」「あなたにこうしてほしいのに、そうしない怒」。

 

 《求める》=《期待》という言葉でも表現していました。

 


 これは一見するともっともそうでありますが、実はそうではありません。《求める》や《期待》というのは、それ自体はなんら悪いことではないのです。

 

⇒「私はこうしたい」「あなたにこうしてほしい」 ‥‥これが《怒》と結びつくかといえば、必ずしもそうとは限らナーイ。

 


 察しのいい方はお気付きのことと思いますが、《怒》が生まれるかどうかというのは、その直後がモンダイなのです。

⇒「私はこうしたい《のに》、うまくいかない」「あなたにこうしてほしい《のに》、そうしない」。

 


 《怒》の正体は、この《のに》です。ボクはこの《のに》を、《依存》とも言っていたりします。《怒》の原因を自分の外に転嫁させたくて、寄っかかっている状態デス。

 

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 ボクは「のに!」と言われて怒られても、「それはあなたの都合デショ」「あなたが勝手に不機嫌になったことデショ」「同じことを経験しても気にしない人なんて五万といるぜ」と内心では思いながら、その不快感を心の深いところに埋めます。聞かなかったことにします。

 


 この言い草だと、「無責任」と思われてしまいそうですが、飽くまで《理不尽》なことに対する反応ですよ。愛を持って《叱って》くれる人の意見には耳を傾けまくりデス。

 

 《理不尽》がキライなのです!「人を、あなたの勝手な《怒》のサンドバックにしないでくれ」ということデス。

 


 そんなオハナシでした。

 

 

 

不器用なりにきっと

 


 5ヶ月ぶりくらいデス。


こんばんちゃ。どうも、星です!

 

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 前回の記事での\( ゲーム実況にハマりました!)/というオハナシから、しばらくブログから姿を消していました( ̄▽ ̄) 約5ヶ月間のことデス。

 


 

 ちなみに、↑こちらがゲーム実況チャンネルです。

 

 いろいろなゲームを実況している最中ですが、只今、『FF7』と『どうぶつの森ポケットキャンプ』をメインに更新しています。

 


 『FF7』に関しては、ただ喋りながらゲームプレイしているだけですが、『ポケ森』に関しては『実況ラジオ』と題して、ラジオばりにひたすら喋っております。 ブログのネタになるような話題も、こちらで喋り散らしております。

 

 興味ある方は、どうぞいらしてみてクダサイね。


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  ここ最近ずっとゲーム実況にハマっていましたのですが、そろそろブログにも帰ってこようと思いマス。

 

 この5ヶ月間、「ブログもそろそろ更新したいナー」とずっと気にかけていたのですが、油断すると『超マイブームのゲーム実況』ばかりに時間を遣ってしまうので、今年は(もう3月だけど)いろいろな趣味に満遍なく時間を割けるよう、自分を律しようと頑張ってみます🙏

 

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 20〜30分で執筆できる内容をチョコチョコ更新していきたい!
ブログ→ゲーム実況の順番にオハナシを公開していけたらいいなと思うマスー

 

 よろしくおねがいいたします!


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 去年に書いたはいいけど公開し忘れていた記事をアップップしてみました。
あいかわらずよく分からないことを、のたまっております。

 


 そんなかんじでー

 

 

 

自分だけが楽をしたって 本当に楽しめないんだよ

 


 

 

 過去記事で、「やりたいことがあっても、正しいかわからないからできない」についてしばらく書いてきました。

 

 「《正しさ》を判断基準にせず、《楽しさ》を判断基準にすればいい」なんて、のたまっております。

 


 

 

 以前、「楽しければ、人を殺してもいいのか」ということについての記事も書きました。

 

 

 本記事ではそれらについてまた、少し角度を変えたオハナシをしたいです。

 

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 以前の記事で書いたような《責任》というのがついてまわると、判断基準がやはり《正しさ》へ傾いてゆく気配がします。ですが、それでもまだボクは《楽しさ》を判断基準にすればいいと言い続けます。

 

 

 「わがままが過ぎれば、誰かに不快感を与える」というところで《楽しさ》を選べなくなってしまう心優しい人は、《楽しさ》の範囲を広げてあげればいいだけデス。自分ひとりが楽しいだけじゃなくて、その周りの人にも利益が舞い込むようにすればいいデス。

 

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 「自分さえ楽しければ、人を殺してもいいのか」となったとき、ただ殺人を犯して得するのは、自分ひとりだけです。

 

 どんなことでも、「自分ひとりだけ、楽しい」という選択をすると、それに対して大きな犠牲が跳ね返ってくることが、多い気がします。

 

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 反面、「自分も当然楽しいし、その身の回りの人も楽しい」という選択ができると、犠牲は小さくなって、むしろ身の回りの世界が明るく潤っていく気がします。「身の回りの人」の数を大きく考慮できればできるほど、世界はどんどん明るさと潤いが増してゆく気がします。

 

 

 キーワードは、《楽しさ》の範囲を広げてやればイイー、デス。

 

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 そういう基準で思考すれば、《殺人》が楽しい人は、《死刑執行人》として働けば良いんではないでしょうかね。死刑執行ボタンを押したくない人間の方が多いはずだから、それを引き受けてくれる人がいるというのは、ボタンを押したくない人々にとって救いになる気がしますわな。

 

 そのことに対して、キチンと給料も支払われますし。ネ。

 

 

 そんなオハナシでした。