甘えたいよ 泣きつきたい
「プロの手を借りたい」ということについて、思うことがありマス。
例えば、精神的に追い詰められている人が、「プロのカウンセリングを受けたい」と言うとき、ボクが思うのは「それって、オカネを支払ってお客さんになるということってことだけど、ホントにそれでイイの?」なんてことです。こんなこと言ってしまうと厚かましいんですけどネ。
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お客さんになる、ということは自分側で根本の部分を克服しなければ、延々とプロに依存してゆくことになるということデス。プロも商売ですから「やさしいコトバを掛けてください」とお客さんが求めてきて、それでオカネを貰って良いんだったら、それでずっとオカネを受け取り続けてゆくんデス。
「やさしいコトバ」が欲しいなら、オカネなんか掛けずとも、トモダチがいるじゃないか。なんて思ったりしますよネ。
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それでもプロにお願いしたいと言う場合、たぶんその人は《『オカネを支払う』という行為によって得られる安心感》が欲しいのではないかな、なんて思いマス。
この話をするとき、ボクはよく《焼肉》を例え話にするんですけれど、「同じ肉を焼いて食べる」にしても、スーパーで安く買ってきて家で焼いて食べるのと、少し高くついても焼肉店で食事するのとだったら、後者の方が満足感が高いんじゃないかななんて思うのです。
《料金が高い=オイシイ》という思い込みみたいなものデス。《オカネを支払えば良いサービスが受けられる》という思い込みですネ。
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それらを考えたうえでそれでもプロにお願いしたいとい言うのなら、「しょうがないね」て思いますが、そこまで考えずにプロに飛び込もうとする人を見ると、「いや、誰かがチカラになるからまず我々に相談しようよ」なんて思いマス。
そんなオハナシでした。 優樹様スゴイ。